聖なる場所×俗なる場所=レジャーの場
どうにもままならない「新しい日常」のなかで、行きたい場所のリストづくりに精を出している。その一つが寄席。知らない時代や場所を空想する、言うなれば“エア旅” ができる。好きな噺のひとつが「大山詣り」なのだが、ご存じの方も多いだろう。長屋の連中で大山の阿夫利神社にお詣りに行く際、酒癖の悪い熊さんが起こす騒動の顛末が描かれる演目だ(悪酔いの罰に頭を剃られた熊が、意趣返しに長屋のおかみさんたち全員を尼さんにしてしまうのがオチ)。
江戸の庶民にとって「お詣り」はレジャーの代表であった。お伊勢参りとまでは言わなくても、信仰をエクスキューズに宴会を楽しむイベントをどれほど心待ちにしていたことか。加えて、お詣りが温泉と組み合わされれば、これはもう、日本の旅の原型。ありがたい温泉をめぐるというアイデアは、遡ること奈良時代、行基によって生み出されたという。その後千年の年月を経て、聖なる場所を旅するなかで己の人生を振り返り、温泉に浸り、飲食を楽しむという一連の旅のプロセスができあがった。ヨーロッパでも、お詣り=巡礼の歴史は古く、なかでも有名なのが、サンティアゴ・デ・コンポステーラだ。巡礼が旅の格好の理由となる、この構図は古今東西変わらない。
徒歩レジャーのポテンシャル
時代によって変わってきたのは移動手段であろう。大山詣りでは、徒歩からお籠、舟といった当時の手段がふんだんに盛り込まれ、噺を盛り上げているが、旅の基本は徒歩だった。その後、人々の移動手段はどんどん変わってゆき、現代では、新幹線や飛行機などの交通機関が発達して、レジャーの範囲は広がった。
ところが、最近のヨーロッパでは前述のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼をはじめ、徒歩への回帰が進んでいると聞く。これは、実は日本でも同様で、すでにしばらく前から四国八十八ヵ所巡り、熊野街道人気、東海道や中仙道など旧街道を分割して踏破する人々の増加など、徒歩への回帰がみられる。
一見、商業的なメリットがなさそうに思える徒歩によるレジャーだが、聖なる場所に出向く道中、街道筋につぎつぎとマーケットを生み出すという素晴らしい効果がある。当たり前だが、お腹が空けばご飯を食べるし、お茶を飲み、疲れたら温泉に浸かり、数日かけるのであれば宿泊し、宴会をする。そのうえ、長い道のりであればあるほど、一度で旅が完結しないため、常に次の旅程が生まれる。この連続ドラマのような楽しみを組み込んだ、継続的でサステナブルな顧客を生み出す区間踏破型の徒歩レジャーは、旅行提供側にとっても総合的アプローチが可能な魅力ある商品になりつつある。
それにしても、大山詣りの時代ならともかく、なぜいまさら徒歩というフォーマットが人々を惹きつけるのだろうか。移動の傍ら身体を動かす機会ができる、コストも抑えられる、大掛かりな準備も不要…。これはたしかにメリットだ。でも、それだけではないだろう。注目したいのは、歩く時間がもたらすメンタルヘルスの効果だ。
世界も日本も、いまや不確実な要素でいっぱいである。ユーロモニターによれば、2020年、世界の73%の人が、メンタルに中程度または深刻な影響を受けたという。メンタルヘルスは経済産業省でも注視されている。16年から25年にかけて、健康のための「癒やし」エリアの経済規模は1.3倍の5,200億円規模に成長。ヘルスケア産業全体は25年に1.4倍の12.5兆円になると見込まれている。
徒歩は、私たちに身体や心と対話する余裕を与えてくれる。五感を確かめ、思索する時間はある種のマインドフルネスの実践ともなる。ホリスティックなウェルネスを実現してくれるのだ。自らのテンポで自由という感覚を記憶に刻む、徒歩を中心とした旅のニーズは高まるだろう。
歩きながら心身と対話し、「自由」を刻む
フランスの社会学者ボードリヤールによれば、余暇とは「自由の支配」だという。余暇は私達に人間の本質は自由なのだ、そうあるべきだ、と思い出させてくれるのである。移動が叶わないいまがなぜこれほど苦痛なのか、その理由を教えてくれる言葉でもある。
外歩きによい季節がやってくる。この春は、大山詣りにあやかって、「ケがない」無事の帰宅を願いつつ、どこか身近な場所に歩いて出かけて街道筋での時間を楽しみたい。
著者情報
伊藤忠ファッションシステム㈱ 第1 ディビジョン マーケティング開発第2グループ シニアプロジェクトマネジャー インテリア、ファッションのバイイング、マーケティング業務を経て、現在、消費と衣食住の未来予測を発信する英国企業WGSN 日本マーケットを担当。立教大学大学院21 世紀社会デザイン研究科修了。研究領域は消費論、欲望論、アイデンティティ論。ボクササイズと猫が趣味のばなな世代-X 世代。
この著者の記事